天才菜食主義者が誤って鳥肉を食べるとこうなる

友人のRyutaro Uchiyamaの文章がもの凄かったので紹介します。
菜食主義者の著者がコンビニでおでんを買い、偶然にも鳥肉を食してしまったという話。

正体は結局分からなかったが、日本のコンビニというのは基本的に信頼できるものなので、そのうす茶色い物体を箸先でつまんで、口の中へと運んでみた。そして一度二度噛んでみると、ものすごい感覚が口腔内を駆け抜けた。ぬぁんだこりゃ!答えは明白だったのだが(「鳥肉だ!」)、それでも、信じられなかった。鳥肉とは、こんなにもすごいものなのか。これほど魅惑的な味が、あんなに小さな破片から流れ出てくるのか。自然の産物に備わっている味だということが、とにかく衝撃的だった。

鳥肉の衝撃はとにかくパワフルであった。そのインパクトの強さの要因としては、一年ぶりの経験であったこともあるが、「何を口にしているのかよく分からない状態」で食べたことが、かなり重要な条件であったように思える。人間というのは、何の前知識もない状態で感覚器官を突然Xに晒されると、Xの現象としての本質と奥深さを一瞬のうちに認識することができる。それは鳥肉の味に限らず、突然の涼風、突然のバイオリンの音、突然の美人の顔、何にでも当てはまる。固い頭と表裏一体の先入観こそが、日常の様々な刺激を退屈なものに仕立て上げてしまうのだ。先入観さえ超越できれば、退屈なことなんか何一つないだろう。とにかく、私はあの一瞬のうちに鳥肉の味の本質を、魂で感じとった。その本質とは何だったか。一文字で表現すると、これである:「魔」。これまで「魔」という観念についてあまり真剣に考えたことはなかったし、それどころかその一文字だけ自律したかたちで存在すること自体、なんというか、忘れていた。にも関わらず、「魔」としか言い表せない刺激であった。念のために言っておくが、「魔」を、「悪」なんかとは混同してはいけない。「魔」は必ずしも悪いものではない。事実、あの初めのひと噛みふた噛みは、一種のエクスタシーであった。刹那のマイクロ・エクスタシー。そして私の日常の論理からは、はみ出した余剰の経験であった。どういうことかと言うと、つぎ込んだ労力(インプット)と支払われた対価(アウトプット)とのバランスが壊れていたのだ。大袈裟な例えを出すと、宝くじを初めて一枚だけ買ってみた人が一等を当ててしまうようなものであり、女の子のメールアドレスを教えてもらっただけで膣内射精が起こるようなものである。入力と出力が全く釣り合っていない。鳥肉を食ったときの、あの歯と歯を擦り合わせるさりげない行為に対して、あの凄まじい味覚の衝撃波がレスポンスとして返ってくるのは、淡いものしか口にすることのない菜食的な生活のロジックから言うと、異様な事態であり、危険さえ感じた。あまりにも魅惑的なのである。そしてあまりにも簡単。日常から切り離された余剰として、快楽だけが宙に浮いているようだった。

全文はこちら↓
http://ryublogo.blogspot.com/2009/09/blog-post.html